学校統合と昭和の大合併

1950年代の学校統合と昭和の大合併の密接な関係

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町村合併が先か、学校統合が先か

(2014年2月26日)

1956年に文部省(当時)は、全国各地で町村合併が進んでいるので、それにあわせて公立小中学校も「適正規模」に統合を進めるよう通達を出しました。実はこれには、綿密なウラがあるのです。

 

1947年(昭和22年)3月31日に、教育基本法、学校教育法が制定され、戦後の新しい義務教育制度(6・3制)が発足しました。

 

『学制百年史』(文部省、1981年9月発行)によれば、当時、6・3制義務教育の「実施にともなう最大の問題は校舎建築にかかる財政問題」でした。

 

戦災により学校施設は大きく不足しました。戦災復旧は、6・3制スタートから5年後の1952年度までに「公立学校では被災面積の41%にすぎず、完全復旧までにはその後なお10年の歳月を必要とした」とされています。

 

特に新しく義務教育となった新制中学校は、発足当初から施設問題を抱え込んでいました。母体を持たずに発足したため、校舎や教室の不足は深刻でした。そのうえ国が学校施設に充てる予算も全く足りませんでした。

 

1953年以降は、国庫補助の立法化が逐次実現し、財源も確保されるようになります。基本的な体制が整うのが5年後の1958年です。小学校児童数がピークを迎えた時期です。

 

当時の動きで見逃してはいけないのが、「昭和の大合併」と呼ばれる町村合併です。

 

当時、文部省は、各地で町村合併の機運が盛り上がっているから、それにあわせて公立小中学校を「適正規模」に統合するとして、1956年に学校統合を奨励する通達を出しました。

 

しかし、当時の町村合併そのものが、中学校を「適正規模」にすることが目的の1つだったのです。

 

1947年4月17日に制定された地方自治法では、「新制中学校の設置管理」をはじめ、消防・社会福祉・保健衛生などの新しい事務が市町村の事務とされました。そのため、行政事務を効率的に処理するため、規模の合理化が必要とされました。

 

そして出てきたのが、1953年の「町村合併促進法」です。その第3条で「町村の規模」について、「町村はおおむね8,000人以上の住民を有するのを標準」とされました。続けて「行政能率を最も高くし、住民の福祉を増進するようにその規模をできる限り増大し、これによつてその適正化を図るように相互に協力しなければならない」と定められました。

 

つまり、町村は、住民8,000人を標準とするが、行政能率を最も高くするため、できるだけ規模を大きくするよう義務付けたのです。

 

さらに、「町村数を約3分の1に減少することを目途」とする町村合併促進基本計画(1953年10月30日、閣議決定)の達成を図るために、1956年には「新市町村建設促進法」が制定されました。

 

この町村規模の標準とされた住民8,000人という数字がポイントです。実は、この8,000人というのは、新制中学校1校を効率的に設置管理していくために必要と考えられた人口なのです。

 

このことは、総務省の「市町村数の変遷と明治・昭和の大合併の特徴」に記されています。

 

昭和の大合併というのは、そもそも新制中学校を1校以上、町村が効率的に設置管理できる規模にするためのものだったのです。

 

こうしてみると、当時の学校統合は、町村合併に乗っかって進めたというよりも、町村合併と一体となって進めたという実際の姿がよく分かります。