学校統合を奨励した時代の国会審議

学校統廃合についての国会での議論<br/>〜 1956年通達時代 〜

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学校統合を奨励した時代の政府答弁の特徴

(2013年2月12日)

「学校の適正規模」や「学校の統合方針」などについての国の考え方の特徴を、国会での政府答弁をもとにご紹介します。

 

ここでは、1956年(昭和31年)通達前後から1973年(昭和48年)通達までをまとめています。

 

  • 1956年(昭和31年)通達とは、1956年11月17日に出された学校統合を奨励する文部省の通達。
  • 1973年(昭和48年)通達とは、1973年9月27日に出された学校統合政策を方針転換した文部省の通達。

 

町村合併にあわせて学校統合を加速

1956年通達が出されたころは、町村合併が各地で進んでいました。そのため文部省は、町村合併にともなう学校統合を重視して、それを促進させようと、学校統合を奨励する通達を出しました。予算配分も、学校統合を進める自治体に手厚くされました。

 

次の政府答弁は、旧文部省が1956年通達を出す前の時期のものです。

 

1955年(昭和30年)7月26日 衆院・文教委員会 小林行雄・文部事務官(管理局長)

町村合併によりまして、学校が整備統合されるということになりますと、学校運営そのものが、非常にある程度の規模を持って参ります関係上、うまくいく。

 

それから経費の面からいたしましても、人件費その他いろいろな経費の点で節約されるということでございますので、やはり文部省といたしましては、合併に伴う学校統合というものを、これを重視して、できるだけそういったものを促進するように予算配分も行なって参りたい。

 

町村合併にあわせて学校統廃合を進めたいと考えていた文部省(当時)は、1956年(昭和31年)8月27日に、@学校統合の基本方針、A学校統合の基準、B学校統合に対する助成について、中央教育審議会に諮問します。そして中央教育審議会が答申を出したのが、同年11月5日。ここで学校統合の基準として「12〜18学級」などの「基準」が出てきたのです。

 

この答申を受けて文部省(当時)は、同年11月17日、「公立小・中学校の統合方策について」という通達を出します。

 

1958年(昭和33年)には、学校教育法施行規則に、小中学校の学級規模は12〜18学級を標準とすることが書き込まれ、義務教育諸学校等の施設費の国庫負担等に関する法律が制定されて、小規模校を「適正規模」に統合する場合には、校舎や体育館の建設費の2分の1を国が負担する制度ができました。

 

こうして各地で小規模校の統合が加速されます。

 

無理な学校統合の矛盾が噴出

しかし、各地で補助金をもらおうと無理な学校統合が行われます。通学距離があまりにも遠くなりすぎ、登校できない子どもも出てきました。地域住民との矛盾も噴出します。無理な学校統廃合が地域での紛争の種になりました。

 

そういう中で文部省は、みずから学校統合を奨励し、財政誘導も行ってきたにもかかわらず、非常に無責任な態度を示しています。

 

1958年(昭和33年)3月5日 衆院・文教委員会 臼井莊一・文部政務次官

地方の町村の合併に伴って、この義務教育の学校の校舎を統合して、できるだけ適正規模にして合理化したい、こういうことで文部省におきましてもいろいろ指導はいたしておりますが、特別にこういう規模でこう統合すべきであるというような指令を出したことはないようでございます。

 

1958年(昭和33年)3月5日 衆院・文教委員会 内藤譽三郎・文部事務官(初等中等教育局長)

学校統合の規模につきまして中央教育審議会に諮問いたしました。その諮問の結果、答申が出ておりますので、それは参考に流しておると思います。たとえば学級は18学級くらいが適当である、あるいは通学に対しては、無理のないように、そういう一般的なものでございまして、特別にどうしろ、こうしろというようなことは流しておりません。

 

多くの自治体で地域住民の間で問題が起きているのは、地方自治体が悪いと言わんばかりです。

 

確かに、1956年の通達は「学校統合の意義に十分考慮を払い、地方の実情に即し答申の趣旨を施策の参考として、統合の推進を図る」よう求め、具体的には中教審答申を添付する形をとっています。

 

しかし地方自治体から見れば、これは国からの「指導文書」です。しかも、その方向で具体的に予算配分も行われるのです。

 

小中学校の設置・管理は市町村の仕事ですから、国いいなりに無理な学校統合を進めた自治体に責任があるのは、その通りだとしても、国が責任を免れるものではありません。

 

のちに、1973年通達(Uターン通達)を出して以降の答弁ですが、当時、文部省が「学校統合を促進する方向で指導した」ことを、はっきり答弁しています。

 

昭和30年代の初めには市町村行政事務の合理化ということで町村合併を促進しておった時代がございまして、そのときには文部省でも中教審の答申を受けて学校統合を促進するという方向で指導したわけでございます。

 

(1980年(昭和55年)3月5日 衆院・予算委員会第二分科会 諸澤正道・文部省初等中等教育局長)

 

もともと1956年通達が、地域で矛盾が噴出したときのことを想定し、文部省の責任を回避するために中教審答申を添付するという形をとっていたのかもしれませんが、官僚の責任逃れ・無責任体質は恐ろしいものがありますね。

 

過度な学校統合による過大校の出現

一方、過度の統合も問題になってきます。「適正規模」の18学級をはるかに超える25学級以上や36学級以上といった学校もたくさんつくられます。

 

文部省が学校統合を奨励した時期の学校規模の変化

 

国の補助金(負担金)は、もともと小規模校を統合するための補助制度だったので、過大校を分離する場合には、国から補助金は出ません。過大校の解消も焦点となってきます。

 

学校統合政策の見直しへ

各地で、無理な学校統廃合に反対する地域住民の世論や運動が広がり、国会でも学校統廃合の問題について議論が重ねられます。

 

特に注目したいのが、1973年(昭和48年)3月7日、衆院・予算委員会第2分科会での山原健二郎・衆院議員の質問です。これは、文部省(当時)に「学校統合政策見直しの通達」を出させる強い後押しとなったとされているものです。

 

山原健二郎 衆院議員の質問と政府答弁の詳細はこちら

 

こうして、文部省(当時)は、1973年9月27日に、学校統合政策の方針を転換する通達(Uターン通達)を出すことになります。