本当に「デメリット」なのか考えてみましょう
(2013年2月12日)
文部科学省は、「学校規模によるメリット・デメリット(例)」をまとめています。
これは、文部科学省が作成し、中央教育審議会・初等中等教育分科会の「小・中学校の設置・運営の在り方等に関する作業部会(第8回)」(2008年12月)に資料として配布したものです。
この作業部会は、2008年7月から始まった「教育効果等の観点から望ましい学校規模」を検討するために設置されたものでした。
文部科学省の「学校規模によるメリット・デメリット(例)」
(文部科学省のホームページへ)
しかし、この中で小規模学校のデメリットとされているものが、果たして本当にデメリットなのか、考えてみる必要があります。いくつかピックアップしてみましょう。
小規模校は切磋琢磨・相互啓発がなされにくい?
小規模校では、切磋琢磨や相互啓発がなされにくいといわれますが、本当にそうなのでしょうか?
子どもは、他人と自分の能力の違いに気づくことによって競争意識が芽生えます。
「だれそれ君は、ボクより走るのが速い」「だれそれちゃんは、ボクよりよく知っている」「お兄ちゃんは、ボクより上手い」…。そうすると「もっと速く走れるようになりたい」「もっといろいろ知りたい」「もっと上手になりたい」といったように競争意識が芽生えます。
このように自然に芽生えた競争意識は、子どもの行動にエネルギーを与え、能動的にさせます。同時に、競争意識は、自分よりも弱い者、劣った者の存在を自覚することでもあります。
何とかお兄ちゃんのように上手になろうと自分なりに「研究」してがんばって、どうしてもできないときに、お兄ちゃんから「こうしたら上手くなるよ」と教えてもらったら、それは新しい「発見」です。「発見」した喜びはひとしおです。とても嬉しいものです。
また、できない子に教えてあげたときは優越感を感じるでしょう。しかしそれは優越感にとどまらず、相手が喜んでくれたときは自分も嬉しくなるものです。
こうして、子どもたちは力の差を認識することによって、みずから深く学ぶとともに、助け合う喜びや相手を思いやる快感などを経験していくのです。
これが本当の意味での切磋琢磨や相互啓発ではないでしょうか。子どもの自然な競争意識を芽生えさせるのに、大規模な集団は必要ありません。
しかし、「切磋琢磨」や「相互啓発」として持ち込まれるのは、往々にして大人社会からの競争です。それは過度の競争主義しかもたらしません。自然に芽生えた競争意識でありませんから、子どもたちが積極的・能動的になることはなく、負担になり、かえって疎外感や無気力を生み出すことにもなりかねません。
国連子どもの権利委員会は日本政府に対して、これまで3回にわたって、「過度に競争主義的な環境による否定的な結果を避けることを目的として、学校制度および学力にかんする仕組みを再検討すること」などを勧告しています。しかし、全く改善されていません。
一人ひとりの子どもが分かるまで学ぶためには規模が小さい方がいいのははっきりしています。また、単なる知識でなく、その応用力、思考力、問題解決力など社会人になって求められる知的能力や知恵を身につけるには、少人数の協同学習が有効であることは立証済みです。だからこそ「小さな学校」「小さなクラス」が世界の流れとなっているのです。
小規模校は人間関係が固定化されやすい?
人間関係が固定化されることは、子どもたちにとってデメリットではありません。むしろ、安定した継続的な人間関係は、子どもたちの成長にとって必要なことなのです。
もう少し付け加えると、学校や家庭、地域社会で、親密で安定した異年齢の人間関係が大切ということです。そういった固定した人間関係の中でこそ、子どもたちは安心して毎日を過ごすことができるのです。
そういう環境の中でこそ、子どもたちは、自分がまわりから常に気にかけてもらっていること、大切にされていることが実感できます。また、その集団・人間関係の中で、自分の役割、また自分がどういう言動をとれば周りにどんな影響を与えるかといったことを学びます。そうして、自己肯定感や社会性が育つものなのです。
それが、例えば小学生になっていきなり、大きな集団の中に身をおかなければならなくなったとしたら、どうなるでしょうか。子どもたちは不安になり、とまどってしまいます。子どもたちにとって、ありのままの自分で安心していられる集団規模というのは、そんなに大きいものではありません。ですから、できるだけ小さな集団・人間関係の中に居ることが大切なのです。
人間関係が固定化されることによるデメリットとしてよくあげられるのが、いじめがあったときにクラス替えで対応できないとか、社会性が育ちにくいといったことです。
社会性というのは、主体的に生きることです。周りの人たちと力を合わせて何かを成そうとしたり、自分の属する集団の中で自分の役割をしっかり果たし、主体性を発揮できることです。さらに言えば、よりよい社会にするために真理を探究し、周りに働きかけて行動し、変えていく力です。
そうした力は、年齢や成長段階にふさわしい規模の集団の中でこそ、だんだんと培われるものです。
いじめの問題でも根本は同じです。いじめは、人間関係が不安定だからこそ起きるのです。クラス替えで根本的な解決にならないことは明らかでしょう。そもそもいじめ問題でクラス替えをしなければならないのは、いじめを芽のうちに気づいて対応できず、深刻になってから初めて気づくからです。それはクラスや学校の規模が大きい場合に起こりがちなことです。
親密な安定した人間関係を築くことができる小規模な学校ほど、いじめは起こりにくく、起きてもすぐにみんなで適切に対応できるものなのです。
部活動が限定される?
小規模校では部活動の設置が限定され、選択の幅が狭まりやすいということもよく言われます。
しかし、部活動は社会教育でもあります。学校が部活動をやらなければならないと考えるから、部活ができないのなら統廃合もやむを得ないということになってしまうのですが、これは本来、社会教育活動として地域で公的に十分保障されるべき問題です。
諸外国では、それが普通です。OECDの「図表でみる教育 2013」でも、日本の教員の法定労働時間は他のOECD加盟国よりも長く、授業以外の様々な業務(生徒の課外活動の監督、生徒指導、事務処理)をこなしているからだ、と指摘しています。
ソチオリンピックでは10代の選手の活躍には目を見張るものがありました。そういう中で、地域のスポーツクラブの意義が見直されようとしています。スポーツクラブだけではありません、地域には様々な文化活動を行っている団体もあります。そういうところに、国や自治体がしっかりと予算措置をして、指導者も育成するし、環境も整える、そういったことをして、地域の中で子どもたちを育てていけばいいのです。
日本ではそういった風土が育っていないために、課外活動が学校の部活動に矮小化されてしまっています。歴史的経緯もありますから、学校での部活動を全く否定するわけではありませんが、学校内での部活動か、それとも地域の中で専門の優れた指導者の下で自分を磨くのか、どちらの方が子どもたちの成長にとって良いかは明らかではないでしょうか。日本も、そろそろ学校での部活動から社会教育活動へ比重を移す時期が来ているのではないでしょうか。